気になることだけ

日常で気になった事を書いています。エンタメ、暮らし、美容、恋愛、資格。ジャンルは絞れませんでした。

人付き合いをやめたら、世界が広がって見えた。

 

今年で二十九歳。正確には二十八歳と五ヶ月になる。

休日に半身浴をしていたときに人付き合いをやめようと決心した。

 

人付き合いで疲れることに限界を感じてしまったのだ。

働かない稼ぎ方があるなら、人付き合いをしない人生もあっていいはずだ。

人付き合いをやめたことは関係問わず、誰かと毎日長時間一緒にいるのが苦痛な自分にとってベストな選択だったと思う。

しかし、完璧に人間関係を断ち切ったわけではない。

心の健康のために自分を大切にしてくれて、尚且つ気を許せる人は手元に残した。

結果的に五人しか残らなかったが十分満足している。

 

人付き合いをやめたことで起こった問題は特にない。

人と関わりたくない自分にとってはあってもなくても変わらないものだったのだ。

ただ、私も人間なので今でも寂しさを感じることはある。

 

人付き合いをしていた頃は寂しさを感じる度に「飲み屋に行けば誰かと話せるはず」と夜な夜なフラついていたし、ネットの掲示板やマッチングアプリでその日会えそうな男の子に連絡したりと散々だった。

それらをしたことで寂しさを拭えた試しは一度もなく、むしろ気持ち悪い罪悪感が募るばかり。

なのに人を求めてしまう。

これらは自分に学習機能がないからではなく、「人付き合い」をしているから求めることが当たり前になっていたことが原因だったと今なら分かる。

そこにあると求めてしまうのはきっと私だけじゃないはずだ。

 

人付き合いをやめて良かった点は他にもあった。

まず、自分の人生を生きているという実感がわいた。

何故かというと時間と気持ちを周りに合わせなくて済むので、自分の為に時間を使い、自分の気持ちを最優先に考える事が出来るからだ。

行きたくもない飲みの誘いに無理にOKしてしまうこともない。

 

自分の時間が増えた分、将来や現状について考える事も増える。

最近は電気を消してキャンドルとアロマを炊き、ジャズを流しながらビールを片手にスタイル。これが本当に楽しい。

訳もなく飲み歩いていた頃には手に入らなかった、至福の時間である。

 

次に、自分自身にかけていた制限が外れた。

人付き合いをしていた頃は周りに合わせることがデフォルトになっていたせいか、新しい物事に挑戦することはほとんどなかった。

気になることがあっても「周りにこう思われたら恥ずかしい」とか「周りでやっている人いないしな」というしょうもない理由で自分の気持ちにストップをかける。

 

辞めた今は意欲的に挑戦している。

暗闇トランポリンの体験に一人飲み、街コン、ハプニングバー、クラシックコンサート鑑賞、放置していたさつまいもから生えた芽の行く先、キャベツとレタスの整腸作用の実験に、二週間、一万六千円生活とジャンルは様々だが、どれも楽しかった。

この中でやらなきゃ良かったと後悔したものはない。

このブログもその一つだ。

 

自己肯定感がいくら低かろうが、その気になれば何でも出来るのだ。

自分主体で生きることがこんなに楽で楽しいものだと思いもしなかった。

 

最後になるが、私が人付き合いが苦手ではなく、自分の価値を自分で認めてあげられるような人間だったらこんなことはしていなかったと思う。

 

自分自身に対する見方をかえようと年単位で努力しても、生まれ持った性質や辛い体験から出来上がった人格を変えることは出来なかったし、むしろそのままの自分を受け入れた方が早いのではとさえ感じた。

ストレスを感じながら自分を変えようとするのは矛盾している気がしたからだ。

 

根本をプラスに動かそうと自分に我慢を強いる、理屈は分かるが、これじゃきっといつか自分が爆発してしまう。

 

なので私はそのままの自分を受け入れることを選んだ。

これから先、歳を重ねるにつれて自分の考え方や価値感が少しづつ変わってきたときに、今の自分の選択がどう転ぶのかは分からないが、その時の自分に良い選択を今みたいに考えられたらなと思っている。

 

だから今は、いつか「やっぱり人と関わりたい」と思ったときのために、自分の土台をしっかり作っておかなければならない。

人付き合いをやめたおかげで浮いた気力と時間を使い、仕事や考え方はもちろん、これからの自分のあり方や人間性を育んでいくことが私の課題になった。